「患者さんのために何をしてあげられるのか」――地域医療への尽きせぬ思いを認め合った新旧医師が事業承継の成功を導く

医療法人社団 昭明会 吉川整形外科

前院長 金田庸一 先生

院長 中川厚 先生

埼玉県の南東部、東の江戸川と西の中川に挟まれた「川のまち」吉川市は、都心部へ1時間圏内というベッドタウンにありながらも水と緑が調和した田園風景が残されている。近世以降は物資の集積地として舟運が栄え、地形的な特徴から、なまず料理をはじめとする川魚料理の食文化が生まれた。駅前ロータリーに設置された親子なまずのモニュメントや、ゆるキャラ「なまりん」など、「なまずの里」とした町おこしも盛んだ。
 金田庸一先生が「金田整形外科」を開設したのは、バブル経済末期の1989年。当時、地域医療の身近な受け皿のなかった住宅地での整形外科・内科医療は、地域のニーズを満たしただけでなく、金田先生の実直な人柄が深く浸透し、住民からの高い信頼を築いてきた。「吉川市の整形外科といえば金田整形」といわれた所以である。
 2023年4月、金田整形外科は中川厚先生に承継され「吉川整形外科」となった。中川先生が経営する医療法人昭明会大谷田整形外科の分院となるが、中川先生はあえて新たなカラーを打ち出すことなく金田前院長の診療スタイルを踏襲し、良好に立ち上がった。
そこには、新旧、両医師のリスペクトがあった。

整形外科医不在のエリアで、できる範囲内の手術治療を提供

金田先生が大学卒業後、整形外科を専攻された理由からお聞かせください。

(金田先生)4年次のポリクリで一通りの診療科を回った際、整形外科教室で若い井上教授がアクティブに診療されている姿に他の医局とは違った活気が感じられました。医局のオープンな雰囲気と教授に惚れ込んだというのが専攻の理由です。

内科系の選択はなかったわけですね。

考えるより先に手が動く性分なもので(笑)、そうなると外科系しかないだろうと思いました。ただ特定の臓器や疾患に対応するより、頭からつま先まで全身の関節を診ることができる整形外科が自分に合っているのではないかと思いました。

勤務医時代、開業という意識は早くからあったのですか。

元々、開業の考えはなかったのですが、大学の関連病院を回るなかで、当時の埼玉県厚生連熊谷総合病院に整形外科の一人医長として出張し、外来から手術まですべて一人でこなしてきました。やりがいがある反面、大学の意向であちこちの病院を駆けずり廻ることに将来の不安を感じ、同じ重責を背負うなら、一本立ちするのもいいのではないかと考えたわけです。

ここ吉川市に地縁のようなものはあったのですか。

落下傘開業といえるでしょう。実家の浦和から大学のあった千葉まで往復する車で通ったという程度です。開業前の約1年半、埼玉県に隣接した流山市の有床診療所で勉強させていただいた折り、吉川市からも患者さんが数人来ており候補地となりました。

開業は1989年でバブル経済が弾ける直前とはいえ、有床診療所を建設できるまとまった土地は入手しにくく、農地転用の許可を得てこの300坪の土地を確保しました。

前面道路を挟んで、広大なUR団地群が開けていますが、開業当初からあったものですか。

団地は1973年の武蔵野線の開通にあわせて開発されたものです。私が開業した当初は33,000人、現在は約2倍の75,000人が住まわれていますが、さすがにかなり高齢化が進んでいます。

有床での開業にこだわったのは、手術もできる範囲でやっていこうというお考えからですか。

恐れ知らずの判断ながら、自分の腕を多少活かそうとしたら、外来だけでは無理だろうと考えた結果です。もちろん、治療のすべてがここで完結することはありませんが、整形外科医不在の地域でしたから安易に病院に送らず、ここでできる範囲の手術はしてあげたほうが患者さんにとっていいだろうと思いました。

高齢患者さんの合併症治療を補完する内科機能

開業から約34年が経ち、すでに入院治療もやられていないにもかかわらず、患者数・医業収益ともに高水準が保たれています。そこはどのように分析されていますか。

かつてのピーク時よりは減っていますが、スタッフを不足なく雇用し、自分の給料が取れる程度の利益は出せています。基本は高齢者なのですが、内科や他の不調にも相談に応じてきましたし、患者さんのために何をしてあげられるのかを常に考えて診療に当たってきました。いまでも、古くからの患者さんから信頼をいただき、受診していただけるのは本当にありがたいことです。

内科は非常勤の先生が診ておられたのですね。

熊谷総合病院勤務時代に知り合った内科の先生が、偶然小学校から高校までを同じ学校で過ごした後輩だったこともあり意気投合しました。医療への向き合い方も共通していて、開業当初から今年の3月まで、月1回土曜日に診察に加わっていただきました。整形外科の患者さんは高齢化するにつれ、内科系の疾患を合併するケースが多くなります。入院患者さんもいましたので、整形外科単科での管理には限界がありました。2つの診療科が機能を補完し合えたことが患者さんの満足度につながったと思っています。

この地で33年以上医療を続け、地域の変遷とともに3代、4代にわたってご家族を診てこられると、深く感じ入る思いがあるのではないですか。

住民の皆さんの代替わりとともに私も77歳まで歳を重ね、すっかり「吉川人」になりました。患者さんたちのことは、病歴だけでなく、生活の背景まですべてわかっている、というより把握せざるを得なかったといっていいでしょう。もう地域医療の生き字引のようなものです。

事業承継の選択は患者さんと職員への配慮

引退・事業承継を意識されたのはいつごろからでしょうか。

開業医に定年がないのは、善し悪しなのですが、70歳を過ぎて漠然と体力的な不安を覚えました。国が年齢の線引きを決めてくれたら、こちらもスッキリと対応できるのですが……。そうした折り、左大腿骨の内側骨折を負いました。外傷があったわけではなく、心配した悪性腫瘍の骨転移でもない原因不明の骨折でしたが、「お前ももうそろそろ辞めろ!」という神様からの一撃だったように思え引退を決意しました。

閉院して更地に戻す手もあったかと思いますが、残された患者さんや、長年クリニック運営を支えてくれたスタッフのことを思えばいい選択とはいえませんでした。できたら、引き継いでいただける先生にお願いしたいと考え、他の承継仲介サービス会社に依頼し、何人かご紹介いただいたもののお見合いは不成立に終わりました。

事業承継についてメディカルトリビューンの山藤俊氏、弊社日本医業総研の植村智之に相談いただき、どのような印象を持たれましたか。

初回の面談から熱心な、非常に誠実さを感じました。印象はとてもよく、彼らなら本音での相談ができそうだと思いました。

事業承継していただくのなら、そのような医師にお願いしたいというイメージはありましたか。

最低でも1年はここで患者さんとスタッフを守ってほしいというだけで、それ以外に特に条件などはありませんでした。

中川厚先生と面談された際の印象はいかがでしたか。

整形外科に多い体育会系だなと……(笑)。いや、悪い意味ではなく、私自身、体育会系の方が好きなものですから。医局では1年先輩は神様という雰囲気のなかで研鑽したものですが、中川先生のピリリと引き締まった姿勢にお任せできるフィーリングが感じられました。

「地域に根差す」という考えと実践に目指す医療の到達点が見えた

次に、承継された中川先生からも話をうかがいたいと思います。先生は下関市のご出身で九州大学を卒業されましたが、臨床研修先に選ばれたのは杉並区の河北総合病院だったのですね。

(中川先生)私の卒業年度からスーパーローテート研修が始まったことで、地元のしがらみを逃れて自由な身で切磋琢磨してみようと考えたのです。まさか、そのままずっと東京に住むことになるとまでは思っていませんでしたけど。

各診療科をローテートされて整形外科を選ばれた理由は何でしょうか。

元々外科系志望でしたが、私よりも体格のいい寝たきりの高齢者が、研修でお手伝いさせていただいた手術を受け、翌日には劇的に恢復し立って歩かれました。その表情からは、動けることの喜びを感じ取ることができました。若いころにスポーツで身体を鍛え上げられた経験をお持ちで、80歳になられてもなお矍鑠とリハビリに励む姿を見て、医師としてこういう人たちのお役に立ちたいと思いました。

先生は2010年から1年間、長津田厚生総合病院で救急外来を経験されています。もちろん、整形外科領域のケガなども多いと思われますが、救急医療では、まず全身状態を早く、正しく評価する必要があります。救急外来は先生にとってどういう経験でしたか。

整形外科の先輩たちを手伝いながら救急を経験する機会をいただけましたが、意識障害の患者さんへの初期対応を指導医から叩き込まれたので、医療を離れた日常生活でも役立つかもしれませんね。

2015年、36歳の若さで有床診療所の大谷田整形外科を承継されたのですね。

私の手術で患者さんを良くしてあげたいという気持ちは強くありました。麻酔科医の弟のつながりから承継のご縁をいただいての承継開業となりました。

どういう医療提供に心掛けていらっしゃいますか。

地域のなかにいかに溶け込むかということです。医療機関では、地域のニーズや日常のお困りごとにどう気づくのかが大事で、受付スタッフに対しても、少しでも手の空く時間があったら待合患者さんの話を聞くようにお願いしています。ご家族のことなども含め、地域の皆さんが本音で相談しやすい環境を作ることから始まって、その結果が手術の実績値にも表れていると感じています。

手術・入院治療を受けることができるのは患者さんの利便性にも配慮したクリニックの強みといえますが、患者さんの多くはなるべく保存療法を望まれるのではないかと思います。受けたい治療を患者さん自身が選ぶという前提で、どのような気配りをされていますか。

保存療法ならこう、手術治療ならこう、という提案はもちろんしますが、大事なのはどのようなケースであっても情報を一方通行にせず、患者さんの身になって一緒に考えるということです。私の父は歯科医なのですが、虫歯を削りましょうと言って拒否される患者さんはいません。ところが整形外科医から背骨が悪いので1~2週間入院して手術で削りましょうと言われたら誰だって躊躇します。患者さんにとっては怖くて当然なのですから、親身になって丁寧に説明すること、その結果私たちの提案を受け入れ、これまで1,000例近く積み上げた手術成果になっていると思っています。

「見合い」を受けるのではなく、「縁談」を申し込んだ!?

地域に根差すというお考えは、金田先生のこれまで実践とも通じるものがありますね。

金田先生のように、患者さん全員の顔と名前が一致し、かつ生活背景までも把握するというまでにはとても及びません。でも医療サービスの根底に流れる部分はそこなんだろうと思います。初めて「金田整形外科」を見学させていただいたときに、スタッフの方々が本当に親切に患者さんに対応しておられました。その雰囲気に感銘を受けたというか、私が目指すべき医療の到達点を見る思いがしました。承継案件の紹介を受けるというより、私から積極的に縁談を申し込んだようなものです。

金田先生とのトップ面談ではどのような印象を受けられましたか。

(金田先生)どうぞ、遠慮なさらず言いたいことをおっしゃってください(笑)!

(中川先生)金田先生は医師としての大先輩です。私は2005年の卒業ですから18年程度のキャリアなんですが、先生は確か……。

(金田先生)もう50年以上です。生きた化石のようなものです(笑)。

(中川先生)3倍近いキャリアでいらっしゃるので、物事の見え方や分析の深みが違うように感じられました。

前院長から学んだ整形外科医療の原点

引継ぎ期間中に、金田先生から得られた学びや気づきといった点はいかがですか。

引継ぎというより、ご指導をいただいた期間でした。地域の患者さんたちがどれだけ金田先生を頼りにされているのかを目の当たりにしましたし、かつて金田先生を指導された井上教授直伝の触診技術は我々とは格段に違います。MRIなどのデジタルで合成された画像診断とは別世界の医療なのです。知らず知らずのうちに、私たちの世代は基本の触診を省いてしまっていたのかもしれません。その気づきから整形外科医としての原点に戻れるような気がします。

(金田先生)それしかできないんです。昭和の整形外科医ですから(笑)。

(中川先生)いえ、現在のデジタル対応は間違ってはいないと思うのですが、聞いて、触って、叩くという基本から始めないと、大きな疾患を見逃してしまうこともあり得るのではないかと思いますね。

診断の精度が大事なのは当然ですが、先生に直接触れていただくことによる、患者さんの安心感も大きいのではないですか。

(金田先生)それはそうです。他の整形外科で、身体にまったく触れず、ろくに目も合わさずに画像だけを見て、「大丈夫」と言われて終わったという患者さんがまれにいらっしゃいました。昔そんなことをしたら、「キチンと診ろ!」と教授や指導医からコツンとやられたものです。それが当たり前だと思ってやってきたわけですが、違う見方をされる先生が増えてきたのでしょうね。

事業を承継されて、旧金田整形外科の何をそのまま踏襲し、どこに吉川整形外科のオリジナリティを出していこうとお考えですか。

(中川先生)グローバルビューはまだ描ききれていませんが、金田先生が築いてこられた歴史と信用、地域に寄り添うという基本姿勢は守って行きます。まだ開業医としての経験も浅いので不十分な部分がありますが、金田整形外科に近づけるよう組織的に頑張っていきことだと思っています。

行政区はまたがりますが、本院の大谷田整形外科とは遠い距離ではありません。本院へ入院患者さんを送るような連携はお考えでしょうか。

患者さんによりますが、本院に手術や入院を誘導するつもりは原則としてありません。本院との距離は約10km、車で30分程度ですが、本当に適用があって患者さんが望まれるのであればという条件でお引き受けするつもりです。ですから、本院の存在は吉川整形外科がご提供する医療のなかの選択肢の一つというだけの位置づけです。

患者さんを離脱させない前院長の協力

事業承継後の初月の数字もまずまずだったという報告を受けております。経営の手ごたえのような感触は感じられますか。

未知の部分が多くありますが、数字が出せたのは患者さんに対して「大丈夫だから」といっていただいた金田先生の声掛けのおかげだと思っています。そこは大家の寛容さというか……。

(金田先生)身体はすっかり退化(・・)(傍点)しています(笑)。でも、私から見てもスタッフの皆さんが本当に頑張っていらっしゃると思っていますよ。

(中川先生)金田先生に頑張りを認めていただけることが私たちの励みになるし、そのおかげで一定の成績が維持されています。

承継に伴い、法人としての事業規模が大きくなりました。整形外科の運営では多職種連携が大切になりますが、人的なマネジメントをどのようにお考えですか。

突き詰めて考えれば、患者さんに信頼していただけるかが医療機関にとって一番大事なことだと思っています。金田先生が何十年とやってこられた名簿記録を開くと、スタッフの離職が本当に少ないんです。承継に伴い新たなスタッフを採用したほか、本院からもシフトで来てもらっていますが、10年単位で勤務されてきた既存スタッフから、患者さんの個別性やクリニックに期待するニーズなどを教えていただいています。私のマネジメント以前に、そうした地域特有の情報が運営上最重要で、そこを正しく解釈して溶け込むことだと思っています。

(金田先生)いやぁ、リフレッシュしたくても辞めてくれないんだよ。ズルズルとしているうちに高齢者集団になってしまいました(笑)。

金田先生。スタッフ定着のための秘訣を教えてください。

(金田先生)納涼会、忘年会、新年会、その他諸々ですが、月1回程度ばか騒ぎするコミュケーションは図ってきました。給与水準が特に高かったわけでもなく、秘訣といってもその程度なのですが、なにか普段と顔つきや対応が違っていると感じたときには放置せず、「どうしたの、何かあったの?」と積極的に声を掛けて話を聞き出し、早めに解決するようにしてきました。でもそれは、院長としては当たり前のこととしてやってきただけのことです。

スタッフとのコミュニケーションという部分では、中川先生はどのようにお考えですか。

(中川先生)全体の動きを俯瞰しつつ、診察室から出て、部門ごとにちょこちょこと顔を出し、スタッフの動きを見ながら「どうだい」と話しかけるようにしています。リハビリでの患者さんへの声掛けや、レントゲンへの誘導など、患者さんにとっての良い行いへの評価も、言葉で直接伝えるようにしています。

両先生におうかがいします。今回の事業承継をサポートさせていただいたメディカルトリビューンと日本医業総研に対する忌憚のないご意見をお聞かせください。

(金田先生)こういう形でクリニックがスムーズに承継できたのは、コンサルの皆さんのおかげです。私の希望や中川先生のお考えを最大限受け入れてマッチングさせたことに、両社の持つ力やセンスが感じられました。本当にありがたく思っております。

(中川先生)私も金田先生のおっしゃられた通りの意見です。ありがとうございました。

担当コンサルタントからも話をうかがいたいと思います。山藤さん、今回、本当にいいマッチングができましたね。

(山藤俊/メディカルトリビューン)初めてクリニックにお邪魔し、金田先生と面談させていただいた日の帰りに、同行いただいた植村さんと「中川先生にピッタリじゃないか」と意見が一致しました。金田先生の話を聞いて、すぐに中川先生の顔が思い浮んだのです。このお二人であれば引継ぎなどもうまくいくイメージが湧きましたし、実際にそれが形になって本日皆さんとお会いできたことを嬉しく思います。

植村さんはいかがですか。

(植村智之/日本医業総研)金田先生のお話を聞くほどに、先生の開業の志と、これまで守ってこられた地域医療を責任もって継いでいただける方は、中川先生をもって他にないと確信しました。案件の概要書を作成して中川先生にご説明した際も、即座に是非お会いしてみたいという話をいただきました。出会いの妙というか、それをマッチングさせていただいたことを嬉しく思うし、承継後も親しくされている両先生のお姿を拝見できたことは、コンサルタント冥利に尽きます。今回は、理想的な仕事をさせていただきました。ありがとうございました。

加藤さんはどうですか。

(加藤義光/日本医業総研)今のお二人の言葉のとおりです。事業計画書はもちろん根拠のある数字で作成したわけですが、それを上回るような初月の実績値は、引継ぎの成功と中川先生の努力が地域に認められたことの証左であると感じています。本当に良い事業承継ができました。

 

Profile

前院長 金田庸一 先生
1971年 千葉大学医学部 卒業 千葉大学整形外科学教室 入局 沼津市立病院 勤務
1972年 千葉大学医学部附属病院 整形外科・麻酔科 研修
1973年 松戸市立病院(現松戸市立総合医療センター) 勤務
1974年 済生会 船橋中央病院 勤務
1978年 千葉市立病院 勤務
1984年 熊谷総合病院 勤務
1987年 鈴木整形外科(流山市) 勤務
1989年 金田整形外科 開設

 

院長中川 厚 先生
2005年 九州大学医学部 卒業 河北総合病院 研修医 同整形外科
2008年 化学療法研究所附属病院 勤務
2010年 長津田厚生総合病院 救急外来 室長
2011年 賛育会病院 整形外科 医長
2013年 北部セントラル病院 整形外科
2014年 桜会病院 救急部長
2015年 医療法人昭明会 大谷田整形外科 事業承継開業
2023年 吉川整形外科(旧金田整形外科) 事業承継

Clinic Data

Consulting reportコンサルティング担当者より

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