29年間、地域医療の最前線を担い続けている「石田医院」。第三者承継の成功に込めたそれぞれの想い

石田医院

前院長 石田 哲朗 先生

院長 林 恭秉 先生

東京多摩地区の拠点都市府中市。大化の改新以後の律令国家の時代に武蔵野の国府所在地だったことにその名を由来し、政治・経済・文化の中心地として栄えた。江戸時代の甲州街道の主要な宿場町「府中宿」としても知られている。
現在の府中市は約26万人の人口を有するが、夜間人口と昼間人口の差が少ないことから、ベッドタウンと産業都市が近接した生活環境がうかがえる。そのためか、将来も住み続けたい街として市民の生活実感値満足度は都内でもっとも高いとされる。
「石田医院」は、1992年に京王線「中河原」駅から徒歩2分のテナントビルに開設された。創設者の石田哲朗先生は、29年間外来と在宅診療にフル稼働してきた。土曜・日曜の診療も欠かさなかったことに、患者さんを選ばない石田先生の強固なポリシーが表れている。当然地域からの信望は厚く、いまだ高水準の患者数が維持されている。
2022年1月、石田医院の経営は石田哲朗先生から40歳の林恭秉先生へと託された。林先生は勤務医時代に主に内分泌代謝科領域に高い専門性を発揮してきたが、承継後は自身の医療スタイルを封印し、まず、石田前院長の意志に学ぶことからスタートさせた。

開業後に学び始めた下部内視鏡と広域な内科診療が地域患者からの信頼を集める

まず、前院長の石田哲朗先生からお話をうかがいます。石田医院を開設されたのが1992年、先生が44歳のときでした。その時点で先生は東邦大学の内科学教室助教授の立場におられたのですが、大学での上位ポストを目指さずに自院開業へと向かわれたきっかけからお聞かせください。

石田哲朗前院長 一つには、私の父親が眼科開業医だったという経緯があります。大学卒業後は、神経生理学、現在の神経内科学を研究してきて、他大学の教授たちとの交流を深めながら、米国アイオア大学留学などで研鑽し論文も書いてきましたが、自身の将来像を考えたときに、基礎研究職にいるより、父の姿に倣う臨床家でありたいという気持ちが勝りました。自院を立ち上げるのであれば、精力的に動ける40代にと考えました。

府中は、最初から開業候補地として考えておられたのですか。

府中エリアだけでなく、他の沿線の開業適地と思われるところは、クリニックの開設状況や駅の看板の数までくまなく調べ上げました。府中のこの物件は不動産会社からの紹介でしたが、確か当時のクリニックは近所に外科と小児科の2件しかなく、内科の競合もあまりなかったと記憶しています。いずれも、院長が高齢だったこともあって、医療ニーズを堀り起こす余地が十分にあると考えました。

先生のご専門は神経内科ですが、いまでも数が少ない小児神経科も診られてこられたわけですね。

小児神経を診られる医師は確かに少ないですね。私が東京女子医大の小児科に研究医員として留学させていただいた際に、当時小児科学の教授だった福山幸雄先生の下に従事し小児神経科学を学びました。1976年頃のことです。それ以後現在にいたるまで小児神経に対応してきました。

クリニックでは内科を標榜されているものの、専門外と思える上部・下部内視鏡を先生ご自身で実施されています。また、画像診断では開業後にCTも追加導入されてるのですね。

胃カメラは病院勤務医時代からそこそこにはやれる自信がありました。大腸の方は、開業後に講習に何度も通って基礎から勉強しました。現在このエリアにも消化器内科が複数開設されていますが、下部に対応するところは意外と少ないのです。結局20年以上、あまり無理をせずにやってきました。看護師も内視鏡のサポートに慣れ、ポリペクも実施していますが事故は一度もありません。大腸がんが疑われる患者さんも、相当数病院に紹介してきましたが、胃の疾患とはまた違った意外な奥深さがあると感じます。また、内視鏡の実施で患者さんとの信頼関係が深まったという実感もあります。内視鏡のリピーターも少なくありませんし、クリニックの口コミ宣伝にもつながったのではないでしょうか。その結果、多い年で上下部合わせて350例ほどの内視鏡を実施してきました。
現在使用しているCTは3台目のもので、最初に導入したのは中古のコンベンショナルCTだったかと思います。その設置のためにビルの上階を借りました。その後、放射線科の教授から、ヘリカルの方が患者負担が少なく、画像精度も高いとアドバイスされ、マルチスライスCTに入れ替えました。

多い日で80人からの外来の合間を縫っての内視鏡検査をどのように運営されてきたのですか。

運営スタイルとしては、40代に松戸の救急病院に非常勤勤務して外科の先生を手本にしました。その先生は朝7時に出勤して8時から1時間手術されることを日常としていたのです。私も同じように7時に出勤して内視鏡をやった後に、通常の外来時間に間に合わせるようにしました。

小児神経科の話に戻りますが、その基本を教えていただけますか。

先ほど申し上げた東京女子医大の福山先生の有名な研究テーマが「福山型筋ジストロフィー症」でした。私はそこで約2年間学びましたが、小児神経科で診る疾患の7~8割は中枢神経症状の「てんかん」が疑われます。発達障害が1割程度でしょう。当時、微細脳障害病症候群などといいましたけど、動静脈瘻がてんかんを引き起こすことは分かっていたので、CTを撮った後に診断を確定し、治療にあたってきました。また発達障害については、そのまま成長して大人の発達障害がすごく増えていますよね。みなさん、子どものころから治療を受けてきていても、本当はなにをされているのか分かっていないのです。一方で、当時領域のはっきりしなかった精神科医の治療を受けてこられた方も多くいます。そもそも昔の精神神経学会は精神科が主導してきました。私は精神科医療は嫌いではありませんけど、神経内科はそこから独立したわけです。米国では当時からneurology(神経学)、neurosurgery(脳神経外科学)、neuropsychiatry(神経精神医学)がそれぞれ独自に確立されていたのですが、日本では内科と精神科に分類されたということです。

地域で支えてきた訪問診療・介護

外来患者さんが絶えない一方で、石田先生は往診にも積極的に対応してこられたわけですが、これは開業当初からの取り組みなんですか。

開業した当時の往診は現在の介護保険制度に則った患者さんとの契約ではなく、「来てください」と頼まれて訪問してきたわけです。私自身は「看取り屋」ではないといい続けてきたものの、紹介患者さんを断ることはせず、最期の1日まで患者さんに生きることの希望をもたせるよう、ご家族と一緒に協力して支援することを目標としてきました。もちろん、結果として多くの患者さんを看取ってきたわけですが、終末期のがん患者さんであっても、医師としての接し方に違いはありませんし、最期まで信頼関係を大切にしてきました。

2000年に制定された介護保険制度以降の往診に変化はありましたか。

多くの訪問看護ステーションが立ち上がり、そこで働く看護師の意識とともに、我々開業医との連携機運が高まりました。ただ、ケアマネジャーに同行して訪問すると、医療よりも介護が先行するパターンが多々あり、私にはストレスに感じられることがありました。地域連携とはいっても、医師の介入タイミングにはやや課題があるように感じられます。

そうしたクリニックの医療機能の拡張は、先生の意思だったのか、あるいは患者さん・地域からの要望に応えた結果ということでしょうか。

私の意思がなければ根本的に広げられないというのはありますが、外来であれ、往診であれ、たとえ看取ることになっても、一人の患者さんを大切にすることで、ご家族などその周囲の方から頼られるようになりました。私が一番長く診ている患者さんは99歳11カ月の女性です。お住いは目黒区なのですが、病院勤務時代に亡くなられたご主人を解剖させていただいたことをきっかけに、以後40年間のお付き合いを続けてきました。医療機能を拡張することのベースは、事業への意欲ではなく、すべて患者さんとの人間関係の延長にあるということです。産業医、学校医、保育園医などもやってきましたが、私から外部にアプローチしたことはなく、何かあったらまず私のところに相談に来る、という流れができてきての結果です。

通常の外来に加えて往診、さらに地元企業の産業医や学校医までを外来1診、院長一人で運営されていくというのは、普通では考えられません。やはり、先生をサポートする優秀なスタッフがいらっしゃったということでしょうか。

外来をスムーズに回すことについては、優秀な看護師に恵まれたと思っています。ただ、パート勤務の彼女たちを院外に連れ出すわけにはいかず、往診は私一人で行い、必要に応じて訪問看護事業所の看護師に同行いただき運営してきました。また、問題が生じた場合には、私一人では解決しようとはせず、担当医と訪問看護師、ケアマネジャー、行政担当者、介護サービス事業者などが「サービス者会議」というカンファレンスを実施し、喧々諤々しながら解決に向けたコンセンサスを図ってきました。制度に押し付けられるのではなく、一人の在宅患者さんを地域で支えるというしくみが自然に構築されました。

林医師に託された、地域医療マインド

石田先生は、29年もの間、府中の地域医療を支えられてこられたわけですが、年齢なども含め勇退の目安となるものはあったのですか。

80歳までには引退というのはありましたが、看護師の娘さんが中学生だったとき、あなたの娘さんが20歳になるまで頑張るよ、などと冗談をいいながら、あっという間に29年間が過ぎました。一方で、医療・医学が進歩を止めることはありません。がんの化学療法なども、かつて私もやってきた抗がん剤治療に比べ格段に進化していますし、さきほど申し上げた当院での大腸内視鏡検査でも、診断は付けられても悪性リンパ腫治療の最先端への理解となると追いついていけません。日常の診療に差し支えるようなことはありませんが、医師としてのもどかしさはありました。家族からもそろそろ一線を退いて、ゆっくりしたらどうかといわれたこともあります。

それで、メディカルトリビューンに後継者の相談をいただいたわけですね。

メディカルトリビューン紙は最新の医学情報を扱っているので、毎号読んで、必要な記事を切り抜くなどしていました。事業承継の案内ページでは、私の希望する条件と、紙面で紹介されていた案件の金額にやや開きがあって、さてどうかな? という気持ちもありましたが、数名の先生から手があがったようです。結果的に林恭秉先生とのご縁ができたことを嬉しく思います。これがメディカルトリビューンのマッチングの力ですね。

面談された林恭秉先生の第一印象はいかがでしたか。

「好青年」の一言に尽きます。林先生は各診療科にスペシャリストが顔を並べる虎の門病院に勤務され、若いながらも多くの業績を積まれてきました。当院の場合医療機能が広いので、明日からすべてお任せします、とはいかないでしょうが、こういう先生に引き継いで欲しいという私のイメージにかなった人でしたので、営業権へのこだわりはなくし、私にできるかぎりの引継ぎ協力はやらねばならないと思いました。

承継後の石田先生が自宅でのんびりとされている姿はちょっと想像がつきにくいのですが、第二のライフプランは、ハッピーリタイアメントとなりそうですか。

やりたいことが結構いっぱいあって。これだったらもっと早く辞めていればよかったかなと……(笑)。府中市は老人大学など生涯学習活動が活発で、先日も美大の方が講師をされる「美術解剖学」に参加してきました。解剖学は当然学んできたわけですが、美術の視点から運動器系を見て、体表面の造形をとらえる応用解剖学に触れ、実は医者は何も分かってはいなかったのではないかと思えるほどの感動を覚えました。それと、運動不足になってはいけないので、富士山一周を17回に分けで歩くコースがあることを知り、昨日は30,000歩ほど歩いてきました。林先生には申し訳ないんですが、結構気ままな生活を満喫しています。

事業承継の第一歩は、石田前院長の下で受けた臨床研修
開業を目指して医師になった

それでは、ここから新院長に就任された林恭秉先生に話をうかがいます。先生のご経歴を拝見すると、早稲田の理工学部を中退された後に、金沢大学医学部に入学されています。元々、医師志望というのがあったのですか。

林恭秉院長 経歴だけを書くと一見格好いいのですが、最初の医学部受験に失敗したということです(笑)。早稲田はいわば仮面浪人のようなものですが、歯科医の父からは、医療の世界は医師にならないかぎり厳しいといわれてきました。それでも、医療をやりたいという気持ちは持ち続けていました。

大学卒業後は虎ノ門病院で研修を受け、そのまま勤務を続けられてきたわけですが、開業というのは意識されていたのですか。

最初から私にとってのゴールは開業でした。もちろん医師になったからには、虎ノ門のなかでも競争の激しいがん治療に取り組みたいという気持ちもあったのですが、クリニックが提供する内科医療の大勢は生活習慣病に関連し、消化器、内分泌、代謝性疾患などとのかかわりが少なくありません。研修後の進路については、恩師からのお誘いもあって迷うことなく内分泌代謝科に進みました。

承継開業は最初から視野に入れておられたのですか。

もちろん、新規での開業を強く考えていました。ところが、検討を始めたとたんに新型コロナ感染症が拡大し、開業環境が冷え込みました。開業の夢を断念することができずに悩んでいたときに目にしたのがメディカルトリビューン紙の事業承継案内でした。それから新規開業の可能性を捨て、承継案件に絞り検討しましたが、医療基盤がしっかりとし、一定数の患者数が保たれていたのが石田医院でした。しかし経営状態よりも石田先生に出会えたことが承継意思決定への起点となったと思っています。

内分泌臓器は全身の部位にありますから、開業医となっても患者さんの全身状態を的確に評価できるという専門性が発揮できますね。

それはそうですね。自分が学んだ場だから褒めるわけではありませんが、虎ノ門のタフな臨床研修は有名です。そこで積んだがむしゃらな研鑽は、承継した当院でも活かせればと思っています。

虎の門時代の先生は、内分泌学分野の研究論文などでも数多くの受賞実績があります。そうした最前線の医療への未練のようなものはありませんか。

ゼロとはいいませんが、私にとって過去の経歴はおまけのようなものです。業績といっても私の能力というより、職場環境であったり、恩師も含め、周囲の方々のサポートによるものだと思っていますし、私より優れた医師も数多く在席しています。私がやりたかった道は、地域の人たちのための医療を提供することですので、虎ノ門出身の先達に倣い、しっかりと努め上げたいと思っています。

具体的に、病院外来とは違う、どういう医療を実現したいとお考えですか。

私の診療スタイル以前に、まず石田先生の意志をしっかりと受け継ぎたいと思っています。約2カ月間、石田先生の後ろについて実診療を見学してきましたが、尿道カテーテルの留置、採血、点滴を取るなど、普通看護師に任せるような処置も石田先生ご自身で行っておられます。これが地域患者さんに真摯に向き合ってきた開業医の姿なのだろうと思います。石田先生には自然なことなのでしょうが、私にとっては患者さんとの和やかな会話一つが学びであり、医師人生で最高の指導者と出会えたと感じています。まるで研修医に逆戻りしたような、貴重な時間ご一緒させていただきました。

これだけの広域な診療機能を引き継ぐことに不安はありませんでしたか。

不安はありましたし、石田先生も心配されていたと思います。ただ、引継ぎ期間中、本当に手取り足取りの指導を受け勇気づけられました。CT検査など、病院ではオーダーを出せば、ルーティンで放射線技師が動きマニュアル通りに画像が届きましたが、ここでは自分で患者さんを案内して、ベッドに寝かせ、位置を設定して撮影し、電カルにデータを送らなければなりません。石田先生は電子レンジより簡単だとおっしゃいましたが、「いやいや、それは違うだろう」と思いつつも(笑)、明るい指導の下で、不安が徐々に払拭されました。

そうしたなかで、内分泌領域など林先生の専門性は発揮できそうですか。

そういう患者さんが来てくれたらいいな、というところで、積極的に広告することはいまはしません。当院院長の基本はジェネラルに診る内科医でなければなりません。開業医としての王道は、あくまでも石田先生が実践されてきた医療をクオリティを下げることなくしっかりと提供することだと思っています。

毎日60人を超える外来にくわえ、往診もあります。会議や当直勤務などのある病院とは直接比較はできませんが、忙しさという面では病院以上ではありませんか。

おっしゃる通りです。朝6時前に起床して7時にはクリニックに入り、帰りは毎晩11~12時です。石田先生には奥様という裏方で支えてくれる片腕がいらしたわけですが、子育て中の妻にそれを求めることはできません。いまは一人で乗り切るしかありませんが、それだけのやりがいがあるのも確かです。

第三者承継で、それぞれが良い人生を歩む

今回の事業承継におけるメディカルトリビューンのマッチングサービスと日本医業総研の承継実務についての忌憚のない評価をお聞かせください。

石田前院長 先日いただいたアンケート用紙には「大変満足」にマル印を付けて返送しました。別にコンサルタントに気を遣っているわけではなく、本当に(笑)。

林先生はいかがでしょうか。

林院長 クリニック事業を引き継ぐなど、おそらく人生で一度きりだと思いますが、メディカルトリビューンの山本舞衣子さん、日本医業総研の加藤義光さんをはじめ関係方々の丁寧なサポートに心強さを感じました。クリニック経営のしっかりとしたノウハウをお持ちなので、些細な相談事も他院の事例などを踏まえ的確に回答してくれました。承継後のクリニック経営の継続に不可欠な会計事務所(税理士法人日本医業総研)への橋渡しなど、ビジネスライクな取引で終わらせることはありませんでした。そういう意味で非常に満足しております。

山本舞衣子(メディカルトリビューン) 石田先生には、ご多用のなか何度もお時間をいただき、複数の承継候補者をご案内させていただきましたが、最終的にベストなマッチングをご提供できたと思っています。担当させていただけたことを本当に光栄に感じています。

石田前院長 地域医療は親から子へリレーションするのが一般的で、とくに地方では多いのでしょうが、都市部では第三者承継のポピュラリティがいまの時代に即しています。この形態でそれぞれが良い人生を歩めればそれでいいのです。優雅な生活とまではいわないまでも、引退後のゆとりのある暮らしを家族に見せられることも大切でしょう。家族も喜んでくれています。私はこのインタビューのあと、映画を観に行く予定です(笑)。

林院長 私にも小さな子どもがいます。将来のことはわかりませんが、子どもが医師を目指したとしても、跡継ぎとしては期待しないことにしています。子どもには子どもの目指す道があるでしょうし、待っているうちに私も毎年確実に歳をとっていきます。先日、石田先生の奥様から言われたのは、「最後にどういう終わり方をするのかを考えておいた方がいい」ということでした。長年、院長夫人として石田先生を支えられてきた奥様ならではの至言です。

Profile

前院長 石田哲朗 先生
日本神経学会 神経内科専門医
日本内科学会 内科専門医
日本小児神経学会 小児神経専門医

1974年 東邦大学医学部 卒業
    東邦大学大橋病院 内科研修医
1975年 東邦大学 内科助手
1976年 東京女子医科大学 小児科研究医員
1981年 東邦大学 医学博士号取得
1987年 東邦大学 内科講師
1988年 米国アイオワ大学 神経内科留学
1990年 東邦大学 内科助教授
1993年 いしだ医院 開設

院 長 林 恭秉 先生
日本内科学会 総合内科専門医
日本内分泌学会 内分泌代謝科専門医
日本甲状腺学会 甲状腺専門医
日本糖尿病学会 糖尿病専門医
難病指定医

2004年 早稲田大学理工学部 中退
    金沢大学医学部医学科 入学
2010年 金沢大学医学部医学科 卒業
    虎の門病院 研修医
虎の門病院 後期レジデント
虎の門病院 内分泌代謝科フェロー
2016年 虎の門病院 糖尿病内分泌科医員
2022年 石田医院承継 院長就任

Clinic Data

Consulting reportコンサルティング担当者より

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